西尾維新『クビシメロマンチスト -人間失格・零崎人識-』

西尾維新_クビシメロマンチスト
西尾維新『クビシメロマンチスト -人間失格・零崎人識-』 (講談社文庫)

西尾維新の戯言シリーズ第2作、『クビシメロマンチスト -人間失格・零崎人識-』を読みました。
第1弾『クビキリサイクル』の感想は → コチラ。

人を愛することは容易いが、人を愛し続けることは難しい。人を殺すことは容易くとも、人を殺し続けることが難しいように。生来の性質としか言えないだろう、どのような状況であれ真実から目を逸らすことができず、ついに欺瞞なる概念を知ることなくこの歳まで生きてきてしまった誠実な正直者、つまりこのぼくは、五月、零崎人識という名前の殺人鬼と遭遇することになった。それは唐突な出会いであり、また必然的な出会いでもあった。そいつは刃物のような意志であり、刃物のような力学であり、そして刃物のような戯言だった。その一方で、ぼくは大学のクラスメイトとちょっとした交流をすることになるのだが、まあそれについてはなんというのだろう、どこから話していいものかわからない。ほら、やっぱり、人として嘘をつくわけにはいかないし―戯言シリーズ第二弾。


めんどくさい宣伝文句だなあ(笑)
正に戯言。


以下、人によっては「ネタバレ」と感じる部分があると思いますので、ご注意ください。
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巫女子ちゃんかわいいよ、巫女子ちゃん♡

零崎人識という登場人物が起こす連続殺人事件は、本作のメインのすじではありません。じゃあなんでサブタイトルになってるのかという疑問が浮かんできますけど、理由は知りません(笑)。知らないけど彼は、本シリーズの主人公かつ語り部であるところの「ぼく」こと「いっくん」が、どういう存在かを説明するためのひとつの手段として登場してきたとも言えそうです。「相似にして対極」と表現される2人の関係性を通じて、「ぼく」を読み解くために。

というか「ぼく」って主人公だったのか?、と。
1作目『クビキリサイクル』を読んだ時点で、シリーズの主人公でありシャーロック・ホームズなのは、「ぼく」の幼馴染的な存在である玖渚友かと思っていたんですよね。「ぼく」は主人公ではあるものの、ワトソン君的役割だと。
ところがどっこい(死語)、友ちゃん、本作ではほとんど登場しないじゃないですか。ミステリ的な謎を「解明」(カッコしたのにはまぁ訳がある)するのは「ぼく」と、前作のラストで登場し今後もメイン・キャラとして暴れ回りそうな“人類最強の請負人”こと哀川潤。ま、まだ2作目なので、これから先の話の中で、それぞれの役割は変化してゆくのかもしれないですけどね。
ちなみに、零崎人識は別のシリーズである、人間シリーズでのメインの登場人物なのね。

で、主人公であろう「ぼく」。
これまで読んできた小説の主人公の中で、コイツいちばん嫌いかも?って感じてます。思考も行動も全てがイラつかせてくれるわww 典型的な悪人だったり、ダークヒーローだったりしたら、どこかしら魅力を感じるもんなんですけど、現時点でコイツに対して管理人が感じるシンパシーはゼロです。ここまで捻じれていて、かつ捉えどころのない人格が形成された背景、それが明らかになったとき(はたして明らかになるのか?)に、すんなり腑に落ちるかしら。そしてそのときに、コイツのことがちょっとは好きになるかしら。

「ぼく」はサイコーに嫌いだが、本シリーズが読むに堪えないかというとそんなことはなく、なかなか面白く読めています。
人と人、人と世界の関わり方について、あちらこちらに興味深く感じるくだりが出てくるから。それを哲学染みた難解さを伴ったかたちではなく、ポップさを感じさせる登場人物間の軽妙な会話の中で展開してくれるから。
めんどくさい描写をする作者だなー、とは思うけど。ま、語り部自体がサイコーにメンドクサイ野郎だからしょうがないか(笑)


さて、次作以降はどうなる?


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