ハーラン・エリスン『世界の中心で愛を叫んだけもの』

ハーランエリスン_世界の中心で愛を叫んだけもの
ハーラン・エリスン『世界の中心で愛を叫んだけもの』 (浅倉久志+伊藤典夫 訳、ハヤカワ文庫)

ハーラン・エリスンの短編集『世界の中心で愛を叫んだけもの』を読みました。表題作はTV版エヴァンゲリオンの最終話のサブタイトルで引用されたことで有名ですね。庵野監督は本書を読んではいなかったようですが。とか偉そうに語ってはおりますが、私のエヴァ繋がりで本書を知りました。

表題作でヒューゴー賞を、『少年と犬』でネビュラ賞を受賞しました。ってSFに詳しくない私はそれがどのくらい凄いことなのか、サッパリ分かりませんが(汗)

以下、「ネタバレ」してますので、ご注意ください。
 ↓
ハーラン・エリスンはいわゆるSF作家ですが、自らSFを(サイエンス・フィクションではなく)「スペキュレーティヴ・フィクション(思索的小説)」と呼んでいます。確かに表題作は「思索的」ですが、他の短編は「思索的」なの、か…?スティーヴン・キングばりのぶっ飛び設定を、キングの足元にも及ばない退屈な筆致で、書き散らしたような作品ばかり。難解ではありませんが、つまんなくて読みづらい(苦笑)。多分肌に合わなかっただけだと思いますが、エリスンの文章は私にとっては下世話にしか響きませんね。「思索的」どうかはともかく、政治や安穏たる現状や「停滞」に対しての怒りはものすごく伝わってきます。その中でも『101号線の決闘』『眠れ、安らかに』は割と楽しんで読めましたが…。映画化もされ、「ちんぴら少年たちと言葉を話す犬との友情を描」いているらしい『少年と犬』は評判良さそうですが、個人的にはイマイチ。これ「友情」の話なのか?

本書の中で難解なのが表題作『世界の中心で愛を叫んだけもの』とエリスン本人による「まえがき」。「まえがき」の中でリオデジャネイロにおける二つのキリスト像について言及しています。一つはあの有名なヤツ。これは富者のためのキリスト(“巨大な白いキリスト”)だそうだ。
ハーランエリスン_世界の中心で愛を叫んだけもの_christ
もう一つは貧民たちの掘っ立て小屋が固まっている地域にある、貧者のためのキリスト像(“小さな黒いキリスト”)だそうです。
エリスンはこう続ける。「しかし彼ら(=貧者)の上に手をさしのべられる日は来ない。おのれの国に住みながら、彼らは孤立無援なのだ。(小さな黒い)キリストは決して彼らを救いはしない。まして人びとが救うはずはない」

この「まえがき」は作者が表題作のみについて述べたものではありませんが、上記のくだりは作者の思想を端的に現すものとして、表題作を読み解くのに参考になるのでは、と考えます。

さて、そこで表題作、『世界の中心で愛を叫んだけもの』です。以下に簡単にあらすじを記します。
時間的・空間的にあらゆる世界の中心地点「クロスホェン」。七つの頭を持つ竜は、自身の「狂気」でクロスホェンを汚染し、この世界に住むものたちを脅かしていた。竜は犯罪者として捕えられ、その「狂気」は「排出」されることになる。ライナ(=政治家)によるクロスホェン生存のための「排出」断行意見と、排出法の発見者センフ(=科学者)の「排出」によるクロスホェン以外の時空への汚染を懸念する意見が対立するが、結果的に排出処置が為される。しかし、センフは竜だけでなく自分自身も排出装置にかけた…。
「排出」によりあらゆる時空にバラ撒かれたのは、竜の「狂気(=悪意)」とセンフの「善意」。「悪意」は現代の大量殺人鬼、ローマ時代の虐殺、第四次世界大戦…を生み出し、「善意」はそれを僅かながらも抑止するように働く(ex:アッティラのローマ侵攻中断)。
センフの「排出」への介入はライナにより(途中で)妨害され、その行為によりセンフは処刑される。センフの遺言により建てられた彫像は、死刑を宣告された際に「愛を叫んだ」大量殺人鬼を象ったものであった。
読んでない方は何が何だかチンプンカンプンでしょうが、まぁしょうがない。実際はこれらの内容が時系列ではなく、ランダムに並んでいるのでさらに難解に感じます。

「排出」について少し補足をします。結果からみると「排出」とは、対象から「精神」を抽出し、それをクロスホェンの外のあらゆる時代・あらゆる空間の世界にばら撒く、ことになるようです。それによって対象物は抜け殻状態みたいになる、と。要はゴミをクロスホェンの外に捨てるようなイメージ。

ポイントとなる事象を箇条書きにします。
①「狂気」の象徴の竜は七つの頭を持つ
②竜は「排出」された後、人間の姿になる
③「排出」された後に残るものは、価値のないもの(センフ)
④七色の箱を開けることにより第四次世界大戦の口火が切られる
⑤「排出」は永遠に続く

<ライナとセンフの考え方の違い>
★ライナ
・クロスホェンの生存のためなら「排出」もやむを得ない
・「排出」の結果をいまいち把握してない
・ライナは彼なりにクロスホェン以外の世界の人々を「愛」していた?
・クロスホェンにはまだチャンスがある。そのチャンスを外の世界に広げたい
★センフ
・クロスホェンを救うための「排出」が他の世界に及ぼす影響を考えろ
・「わたしも同胞を愛しているからだ」
・「狂気は生きた蒸気だよ。力だ」
・「きみは彼らをつねにそれ(=狂気)といっしょに暮らすことにさせた。愛の名においてだ」

タイトルの『世界の中心で愛を叫んだけもの』ですが、「世界の中心で」はクロスホェンで、ってことでしょう。また「愛を叫」ぶ描写については、現代の大量殺人鬼スタログが死刑判決を受けた際にこう叫ぶシーンがあります。
「おれは世界中のみんなを愛してる。ほんとうだ、神様に誓ってもいい。おれはみんなを愛してる、おまえたちみんなを!」
スタログは「排出」された「狂気」による影響と同時にセンフの「善意」の影響も受けています、多分。ただし、「愛を叫」ぶ「けもの」は「世界の中心」にいるはずなので、スタログではないでしょう(「けもの」の代弁者がスタログ?)。すると「けもの」はライナかセンフのどちらかだと思いますが、いまいち分かりません。「けもの」とはライナの事であると考える方もいらっしゃって、私も概ねそれに賛成(っていうか便乗/笑)です。ライナは「愛の名において」「同胞」を排除した「けもの」である、というわけです。
ただしセンフは、③で「排出」された後に残るものは、価値のないもの、と言っています。②によると「排出」された竜は人間の姿になるので、「狂気」を「排出」された人間は「価値のないもの」であるという意味にもとれます。センフは狂気奨励派?センフ=「けもの」でしょうか。積極的に「愛を叫」んでいるのはセンフだしなぁ。でも「私だって、できることならあれを排出してしまいたい」とも言ってるしなぁ。

次に、という数字ですが、「狂気」の象徴である竜が七つの頭を持っていて(①)、第四次世界大戦に導くのが七色の箱である(④)、と。別の短編にも化け物として七つ頭が登場しています。こりゃ、七つの大罪のことを示唆してるでしょ。②の事実もそれを補強しますし。あと、七つの大罪になる前は八つの枢要罪であったと、Wikipedia先生は教えてくれますが、八人の悪人が登場する短編も収録されています。これはまったくの偶然かもしれませんが(汗)…。
④第四次世界大戦のエピソードが一番最後に配置されていること、合わせて⑤の「排出」が永遠のもの=狂気を永遠に撒き散らし続ける、ということを考えると、「センフが善意を以って身を挺して世界を救おうとした」という甘ちゃんな解釈は個人的には認めにくいです。ここでエリスン自身による「まえがき」のくだりを引いてきたいのですが、富者=クロスホェン貧者=外の世界と考えるのは短絡でしょうか?「貧者=外の世界」には決して(神による)救いの手は差し伸べられず、ましてや「富者=クロスホェン」が救ってくれるわけがない。

だが、もしそれ(スタログの彫像)を見出せば、彼らは知るはずだ-地獄が彼らとともにあることを、そして、天国と呼ばれるものが事実存在することを、そして、その天国の中には、そこからすべての狂気の流れ出す中心があることを。そして、ひとたびその中心にはいれば、そこに平和があることを。


これはラスト近くの一節ですが、「富者=クロスホェン=天国」「貧者=彼ら=外の世界=地獄」と読み解くと、ものすごいほどの皮肉と諦観とやりきれなさに襲われますなぁ。

表題作『世界の中心で愛を叫んだけもの』は実に「思索的」で面白い逸品だと思いますよ。


完全に自己満足で備忘録的なものを、長々と失礼しました。
おしまい。
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COMMENT 2

kazz_asai  2012, 06. 09 [Sat] 22:58

題名のインパクトは最強

一時ハーラン・エリスンが凄く持ち上げられていたことがあって…といっても30年ほど前の話ですが、私もそのときこれを読みました。
もともとあまりSF小説は得意ではないのですが、一番苦手なのは完全に現実世界を離れた設定を作ってそこで物語が進行するタイプ。ディックなんかもこの系列ですね。で、「世界の中心で愛を叫んだけもの」もまさにその路線でして、個人的にはどこが面白いのかわかりませんでした。
まあ高校生の未熟な読解力では理解できなかったのかも知れません。いずれ書架を探して再読してみることにします。

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ヒゲ・スカイウォーカー  2012, 06. 09 [Sat] 23:24

kazz_asaiさん、

私もSF小説は不得意です。これを読んだのはたまたまですね。SFは読者に「平行世界」等の前提知識が要求されたりしますよね。高校生でコレはきついかもしれません。私なんて、今読んでもサッパリな部分がありますから。

確かに題名は秀逸で、なかなかカッコイイですね。

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